なぜ人はより多くのものを、また、非日常的な何かを追い求めるだろうか?

 

カバラの中にも同様な疑問が記述されている。

「なぜ、より高度な力を顕示したいと欲するのだろうか? 人間性は何度も生まれ変わることで次第に形成されてきた。最初は、食物だけを求める野獣に近かったが、そこから家族、性、住居を求め、次に富、権力、権威、知識を追求するようになった。」

 

初期の段階で人は、食、家族、性、住居のみを求める。どんなに閉ざされた状況でも、この欲望は満たされるまで追求するのだ。社会的状況によって左右される富、権力、権威への欲望は次の段階で現れる。

 

その次に生まれるのが、知識に対する欲望である。科学は人間の由来を探り、そのルーツを辿ろうとすることで発展した。しかし、この段階で知識欲はまだ、人間世界の枠内においてのみ存在する。次の段階になって人は初めて、自分がどこから来て、一体何者なのかという本質的な生の意味について自問することになる。しかも、この疑問は自問する者を煩わせ困惑させることになる。

 

人間とは本来、自己中心的である。あらゆる欲望は元を辿れば自ら招いたものであり、それを満たそうと渇望する。

 

この欲望がプレッシャーとなって私達に重く圧し掛かり、実際、行動様式の全てを支配することになるのだ。人間世界においてエゴイズムの究極は、天上には何が存在するのか?という知的欲求である。言い換えれば、知的欲求の源がどこにあり、それがどのように出現するかという疑問である。欲望の根源とは“苦痛”でもある。

 

一つの欲望から次の欲望に移行する際には、常にある種の苦痛を伴う。ただ安定した精神状態であれば難なく穏やかに移行できることもある。しかし、いずれにせよ、再び新たな欲望が生まれ、また何かが足りないと感じ始めるのだ。

 

何か新しいことを経験したくなり、その欲望を満たそうと試み、同じことをいつまでも繰り返す事になる。言い換えれば、常に新たな刺激、快楽を追い求めている事になる。私達はこの惑星に生まれ、生き、そして死ぬその日まで飽くなき欲望を満たすのに懸命だ。結局、いくつもの人生を繰り返し、最後に残されたのが、人生の意味を問い、生の由来を探ろうとする欲望なのである。

 

この究極的な欲望が生まれると、他の全ての事が些細で無意味なものに見えてくる。この境地に達すると人は憂鬱になり、情緒的にも精神的にも空虚感に苛まれ、例えどんな手段を用いてもこの世で幸福を手に入れることは出来ないと思うようになる。そして、人生の意味を見失い、本質的な何かが欠落していると感じるようになる。

 

「私が生きる目的は何?」「なぜ私は存在するのだろうか?」このような疑問が生じた時、人はカバラに導かれるのだ。

 

 

Last Updated (Sunday, 06 December 2009 19:11)