By Asaf Ohayon

 

Facebookについては既に多くのことが語られてきた。世界でもっとも成功したソーシャル・ネットワ-クである、世界中で既に何百万もの人々が利用している、150億ドル以上の価値がある、マイクロソフト社が2億4000万ドルを出資して1.6%の株式を取得した、などなど。

しかしその大きな数字、成功、目を引く言葉の数々の裏に、ひとつの疑問が浮かんでくる – なぜ?

 

人々はなぜ直に会うよりもインスタントメッセージやSMS、サイト上の写真や動画で交流するのを好むのだろう?

 

一時の流行か、社会的風潮か?

 

Facebookはネット上でも話題の的である。誰もが友達を増やし、新しいアプリケーションを利用し、動画を共有し、写真をアップロードする。ソーシャルネットワークにはまり、ネット上での交流に何時間も費やしていると多くのインターネットユーザーが率直に認めている。

 

しかし、なぜそうしてしまうのかを理解している人はほとんどいない。考えてみてほしい、現実の世界においては自分の利益にならないことになぜそんなに多くの時間を費やすのだろう?Facebookが社交の輪を広げるのに役立つから?匿名の出会い系サイトとして使えるから?あるいはビジネスのきっかけになるから?

 

どの問いにもはっきりとは答えられないが、ひとつだけ明白なことがある。Facebookは日々の現実から逃避する安易な手段なのだ。私たちを出来合いの、架空の世界 – 何百人,何千人という友達がいる世界、ゲームの世界、そして社会的摩擦のない世界(少なくとも今のところは) - へいざなってくれる。朝から晩まで贈りものを送受信し、面白半分に人の気を引き、人の個人的な写真を見てまわる・・・最も耐え難いのは誰かがくだらないちっちゃなアイコンを画面に表示させて自分の邪魔をしてくることだ。これは本当に苦痛だ!

 

ここで疑問がわいてくる。Facebookは本当に現実の世界での人付き合いに代わるものなのか?実生活で人と交流することはそんなにも困難なことなのか?

 

すべてを欲するエゴ、一体化を求める魂

 

実のところ、我々人間は社会的な生きものである。だからこそ自分がどんなに美しく、知的で賢いか、どれだけ人気者であるかを皆に見せて自分のエゴを満たしているのだ。私たちは見ることも見られることも大好きで、facebookのようなソーシャル・ネットワークはその格好の機会を与えてくれる。全世界を見ることができ、そして精一杯、実際以上に素晴らしく装った自分を全世界に見せることができる。

とっておきのカッコいい写真、たくさんの褒め言葉や趣味・関心事で自分をアピールしているが、それは心の奥底にある欲求 – 私たちの誰もが共有している、カバラで言うところの“一体化(unity)”への欲求を取り繕っているのかもしれない。

 

つながる私たち

 

Facebook同様、カバラも人間同士のつながりに深く関わっている。カバリストたちが説くには、元来、私たちは皆無数の魂から成る1つの大きな魂の内でつながっている。そこで私たちは1つの完全な体系として、途切れることなく互いが結びついた状態で存在しているのだ。

ところが進化の過程で共通の普遍的な魂を認識できなくなり、互いに結びついているということを感じられなくなってしまった。そして空しさと、私たちの間に何かが欠けているという感覚が生じた。以来、それを補う方法、かつて感じていた一体感と結束を何とか取り戻す方法を私たちは探し続けている。

実のところ、何百万という人々をFacebookのようなソーシャル・ネットワークへと向かわせているのは、我々が潜在的に持っている、かつて共通の魂の中でつながっていた頃の記憶なのだ。ネットワーク上では時や空間、その他様々な違いを超えて互いにつながることができる。しかしこれは真の精神的なつながりに見せかけたものにすぎず、本当の一体化への欲求を満たすものではない。

 

断絶による結びつき

 

共通の魂に対する認識を妨げ、我々に疎外感を感じさせているのは増大する人間のエゴである。エゴイズムは人間の歴史を通じて増大してきたが、近年それが頂点に達した。史上最大のエゴイズムはかつてない程の技術進歩をもたらしたが、一方で我々が再び一体となるのを妨げもしている。その結果、つながりを回復したいと切望する心に深い喪失感を感じるのだ。

しかし喪失感を感じるようになるまで、エゴに踊らされた私たちは人より優れていなければならないのだと感じ続ける。エゴは自分の利益のために互いを利用し、さらには傷つけるよう我々を駆り立てていく。とりわけ、分裂状態の裏で皆が内面的につながっているということを分からなくさせてしまう。

他者とつながっているという考えを嫌悪させるのはエゴに他ならない。私たちは“相互依存”や“連帯感”といった考えを心地悪くて煩わしい、不快なもの、とすら感じている。それが結びつきを拒絶する理由だ。

しかしどんなに拒絶しようとしても、我々の生活のあらゆる領域に迫り来る危機、グローバル化の波、そしてさらには自然界の劇的な出来事によって、私たちが互いにつながり、依存し合っているという事実を認めざるを得なくなった。

いま、我々は2つの傾向の板ばさみになっている。一方では皆と一緒にいることを望み、他方では近づき過ぎたくはない。そこで仮想ネットワークが完璧な解決法を提示してくれる。コンピューターのスクリーンの後ろで距離を保ちながら何千という人々と交流することができるのだ。

したがってテクノロジーは本当の意味で私たちを結びつけることはない。つながりを絶ったまま、つながっているかのように感じさせてくれるだけだ。しかし時とともに深まってくる断絶感は、電気通信やバーチャル・メディアでは不可能なつながりが真に求められている、ということを浮き彫りにしている。

人との結びつきに対する本当のニーズを満たすためには、電気通信によるものから私たちの心に根ざしたものへと、我々のソーシャルネットワークを“アップグレード”しなければならない。

 

回線速度を気にしなくていい真のつながり

 

今の時代は人間の発達においてかつてない局面を迎えている。私たちは内面の結束の再発見まであと一歩というところに、これまでになく近づいた。すなわち、我々が存在する目的を果たそうとしているのだ。カバラの叡智とは、まさに全人類の一体性、言い換えると、全ての人の心の奥深くに存在する統一体を取り戻すための方法である。

しかしその統一体を再発見するには、現実を認識する方法を根本的に変えなければならない。つまり私たちのエゴイズムを無条件の愛と授与の性質に転換しなければならないのだ。そうすることによって、新しい、精神的なレベルでの現実を体験するだろう。

その結果私たちはコンピューター画面の後ろに隠れて互いのつながりを求める、という必要がなくなる。代わりに、私たちは紛れもない連帯感を感じるだろう – 今度は我々の心を通じて。

 

KABBALAH TODAY MAR-APR 2008, #13 より

Last Updated (Sunday, 14 April 2019 00:24)