心から来るものに関しては心に入る。これゆえ、たとえものが既に心に入ったとしても、何故我々はそれでも人が自分の段階から落ちてしまうことを目にするのか?

 

問題は、人が自分の先生からトーラーの言葉を聞くとき、彼[その人]がすぐに先生に同意し、一生懸命に先生の言葉に従おうと決心する。しかし、その後、彼が世界へ出るとき、彼は見て、むやみに欲しがり、世界中をうろついている多数の欲求に感染し、彼、彼の知性、彼の心、彼の意志が大多数の前で無にされる。

 

世界を価値の秤皿[はかりざら]の方向へ判決を下す力が彼にない限り、彼らは彼を制圧する。彼は彼らの欲求と混ざり合い、羊のように屠殺者へと導かれる。彼に選択肢はない。彼は大多数が求める全てのものを、考え、欲し、渇望し、求めるよう強いられる。

 

その代わり、そのときたった1つの忠告がある、自分の先生と書物にすがりつくことである。これは「書物の口から、そして著者の口から」と呼ばれる。唯一それらにくっつくことによって、彼は自分の知性と意志を良い方向へ変えることができる。しかしながら、機知に富んだ議論は彼の知性を変える手助けにはならなく、唯一ディヴィクット(付着)のレメディーのみがその手助けになる。その理由はディヴィクットが彼を改心させるので、これが驚くべき治療薬であるからだ。

 

ケデュシャ(神聖さ)の内部にいる間においてのみ、人は自分自身と論争し、賢い論争術にふけることができる。その知性が常にクリエーターの道を歩むべきことを必要とすることである。しかしながら、人は自分が賢く、スィトラ・アフラ(向こう側)を打ち負かすだけの知恵を既に使うことができると確信しているときでさえも、これが全く役に立たないと覚えておかねばならないと知っておくべきである。

 

これら全ての概念は彼が獲得した前述のディヴィクットの結果でしかないため、これは欲求との闘いに勝てる兵器ではない。言い換えれば、人は常にクリエーターの道のなかでたどらなければならないと言いながら、彼が建てる建物の基礎である全ての概念は、彼の先生とのディヴィクットのなかで建てられる。それゆえ、もし彼が基礎を失うならば、それらは今や基礎を欠いているため全ての概念は無力である。

 

これゆえ、人は自分自身の知性を当てにするのではなく、もう一度書物と著者にくっつかなければならない、それだけが彼を助けることができるため。そして機知と知力は何の助けにもならない、それらには生命がないからだ。

Last Updated (Sunday, 15 November 2015 01:23)