「汝自身の如く汝の友を愛せよ」(レビ記19:18)

ラビ アキバは言う「これはトーラーにおける偉大な法則(注釈11)である」


この賢者たちの言葉には説明が必要である。Klal(共同体/法則)という単語は、その細部の総和を示しており、それらを組み立てることにより上層の共同体を形成する。つまりトーラーの偉大なKlalである「汝の友を汝の如く愛せよ」というミツヴァに関して話すとき、私達はトーラーの残りの612個のミツヴォット(戒律)とその全ての解釈が、たった一つのミツヴァ(ミツヴォットの単数形)「汝の友を汝の如く愛せよ」に挿入され含まれた細かい部分を全て合計したものと、完全に等しいことを理解しなければならない。


これは驚くべきことである。人と人の間のミツヴォットに関してならまだしも、その本質や広大な法則の大半を占めている人と神の間の全てのミツヴォットを、たった一つのミツヴァが含んでいるなんてありえるだろうか?


2)もしも私たちがこれらの言葉を両立させる方法を見つけるべく全力を尽くすのであれば、さらに顕著な次なる言葉がやってくる。それはHillel(Shabbat 31)の前に現れた改宗者に関するものであり、彼にこう言った。「私が片足で立っている間に、トーラーの全てを教えよ。」彼は答えた。「あなたが嫌なことを、あなたの友達にしてはいけない。」(「汝の友を汝の如く愛せよ」の翻訳)そしてその残りはその解説である。学びに行きなさい。


私たちの目の前には明確な法則がある。つまり612個の全てのミツヴォット、そしてトーラーに書かれている全てに関して、ミツヴァ「汝の友を汝の如く愛せよ」よりも優先されるものはないということ。それは、他者を愛するというミツヴァを適切に解釈し心に留めさせることが唯一の目的だからである。彼は明確にこう言っている。「残りはその解説である。学びに行きなさい。」この意味は、トーラーの残りの部分はそのひとつのミツヴァの解釈だということ。つまりもしもそれらがなければ、友達を自分自身のように愛するためのミツヴァは完成させることができない、という意味である。


3)問題の核心部分に入る前に、私達はミツヴァに従事しなければならない。なぜなら私達は「汝の友を汝の如く愛せよ」と命じられているからである。「汝の如く」とは「自分を愛するのと同じ程度に、ほんの少したりとも劣ることなく、友を愛せよ」ということ。言い換えると、イスラエルの国家において、全ての人の欲求を継続的かつ慎重に満たさなければならないということである。あなたが自分の欲求を満たそうと、常に警戒を怠らないでいるのと同じように。


これは完全に不可能なことである。日々の作業の間に、彼ら自身の必要性を満たせる人は多くはおらず、彼らに国家全体の望みを満たすために働けなどと言うことはできない。そしてトーラーが誇張した表現をしている、などと考えることもできない。それは、これらの言葉や法則が完全な正確さで与えられていて、そこに何かを付け足したり減らしたりしてはならないと警告されているからである。


4)これでもまだ不十分ならば、仲間を愛するというそのミツヴァの簡単な説明は、より苛酷なものであることを伝えよう。なぜなら私たちは自分より先に友達の必要性を考えなくてはならないからだ。ヘブライ人の奴隷に関する「あなたと共にいることを喜び」(申命記15:16)という言葉に関して、賢者たちはこう書いている。(Kidushin P20)「たったひとつの枕しかないとき、奴隷にそれを与えず自分がそこに横たわるのであれば、“あなたと共にいることを喜び”とはならない。なぜなら彼は枕に横たわり、その奴隷は床に横たわっているからである。もしも彼がそれを使わず、奴隷にもそれを与えなかったならば、それはソドム人のあり方である。」ここから、彼は自分の意思に反してそれを奴隷に与えなければならず、主人である彼は床に横たわるべきであることがわかる。


また仲間を愛する度合いに関する私たちの言葉の中にも同じ法則が見つかる。なぜならその文章でも、ヘブライ人の奴隷に関する「あなたと共にいることを喜び」という例と同様に、友達の必要性を満たすことと自分自身の必要性を満たすことを比較しているからである。このようにここでもまた、彼がたった一つの椅子しか持っておらず、友達は一つも持っていないとき、その法則とは、彼がそこに座り友達にそれを与えないならば、彼は自分を満たすように友達の必要性を満たしておらず、彼はミツヴァ「汝自身の如く汝の友を愛せよ」を破っている、というものである。


もしもそこに座らず、友達にもそれを与えないのであれば、それはソドム人のあり方と同じく邪悪な状態である。そのため彼は、自分が地面に座るか立つかして、友達を座らせなければならない。これは明らかに、人が持っていてかつ彼の友が持っていない全ての必要性に関する法則である。このミツヴァが多少なりとも実行可能なものかどうか、今すぐ見に行きなさい。


5)私たちは理解しなければならない。なぜトーラーがイスラエルの国家に特別に与えられ、世界中全ての民族に平等に与えられなかったのか。そこには、あってはならない民族主義が含まれているのか?もちろんそのようなことはない。実際賢者たちはこの問いを吟味した。そしてこれが、彼らが次の言葉(Avoda Zarah 2)で伝えようとしたことである。「神はそれを全ての国と言語にもたらした。そして彼らはそれを受け入れなかった。」


しかし彼らが不思議に思ったのは、他の国がそれを欲しなかったのならば、そのときなぜ我々は「あなたの神、主はあなたを選び」(申命記7:6)と書かれているように、「選ばれた人々」と呼ばれたのか?さらに基本的な質問として、クリエーターがそれらの野蛮な者達と交渉するために、主自ら、その両手に主の法則を持ってやって来たなんてことがありえるのだろうか?そんなことは聞いたこともなく、全く受け入れがたいことである。


6)しかし、我々に与えられたトーラーとミツヴォットの本質や、その求められた目的を、賢者たちから教わったレベルまで完全に理解するとき、つまりこの目の前にある偉大な創造の目的を理解するとき、我々は全てを知るだろう。なぜなら目的のない行為は存在しないというのが最初の構想だからである。最も低いレベルの人類や幼児を除いて、この法則に例外はない。そのため明らかにクリエーターは、その偉大さが想像を超えており、それが偉大な行為であろうとも、小さな行為であろうとも、目的もなしに行為を行うことはない。


賢者達はこれに関して、世界はトーラーとミツヴォットを遵守するためだけに創られた、つまり彼らが説明したように、主が被造物を生み出した時から、その目的はゴドリネスを人々に明かすことにある、と言っている。これは主のゴドリネスの開示が、素晴らしい恩恵として被造物に届き、さらにそれは望ましい大きさになるまで成長し続けているからである。


そしてそれにより、低き者は真の認識を持って上昇し、最終的な完成、「あなたの他に、神を目に見たことはない」(イザヤ書64:3)へと至るまで、主に向かい、主と付着するための戦車(chariot)となる。そしてその偉大さと完全さの栄光ゆえに、トーラーや預言書にも誇張した言葉は唯のひとつもない。賢者はこう言っている。「全ての預言者はメシアの日のためだけに預言をした。しかし来世においてもまた、あなたの他に神を見ることはなかった」(Berachot 34)


この完全さは、トーラーや預言書の言葉、そして賢者たちの言葉の中で、Dvekut(付着)というひとつの言葉の中に表現されている。しかし大衆がこの言葉を使うとき、一般的にその内容のほとんど全てが失われてしまっている。しかしそれでもあなたが、ほんの少しでもこの言葉をじっと感じるのであれば、その驚くべき偉大さに圧倒されるであろう。それはあなたがクリエーターの偉大さと被造物の低さを思い描くからである。そのとき、あるものが別のものと共にいるというDvekutの価値を感じることができ、そして我々がこの言葉が全創造の目的を表現していると考えている理由を理解するであろう。


彼らがクリエーターとの付着によって報われるまで、その小さき被造物がトーラーとミツヴォットを遵守することによって絶えず上昇し発達していくこと、それが全創造の目的だということがわかる。


7)しかしここに、カバリスト達がやってきて問う。なぜ私たちは最初からこの付着という高い資質を持って創造されなかったのか?創造に関わるこの労苦、トーラーとミツヴォットで私たちを苦しませなければならない理由はどこにあるのか?彼らはこう答えた。「自分のものでないものを食べる者は、彼の顔を見ることを恐れる。」これは、友達の仕事を搾取し楽しむ者は、そうすることで人間の形を失うまでに、ますます恥ずかしくなるため、彼の顔を見ることを恐れる、という意味である。主の完全さから来ているものに欠陥はありえないため、主は私たちに、トーラーとミツヴォットにおける作業を通して、自らその崇高さを手に入れる機会を与えたのである。


これらの言葉は最も深遠なものであり、私は既に書籍Panim Me’irot uMasbirot to the Tree of LifeのBranch One、そしてThe Study of the Ten SefirotのInner Reflection, Part Oneで説明している。ここで私は全ての人が理解できるように簡潔に説明する。


8)これはある裕福な人が、市場から人を連れてきて、彼に食料を与え、金や銀や欲しいもの全てを毎日与えているようなものである。その人は毎日彼に、その前日よりもより多くのギフトを与えた。そしてその裕福な男はついに言った。「教えてください。あなたの望みは全て叶いましたか?」彼は答えた。「私の望みの全てが満たされたわけではありません。もしも私が自分の努力でこれらの貴重な品々の全てを手にしていたなら、それはとても素晴らしく嬉しいことだったでしょう。あなたがそれらを手にしたように。そして私はあなたからの施しを受けることはなかったでしょう。」するとその裕福な人は言いました。「だとしたら、あなたの望みを叶えることのできる人は決して存在しないでしょう。」


これは当然のことであり、彼はたくさんのプレゼントを受け取れば受け取るほど、大きな大きな喜びを体験するが、その一方で、そのお金持ちが彼に与える過剰なまでの善良さに恥ずかしさを感じずにはいられない。これは、授与者の同情や哀れみを通してギフトを受け取る者は、恥や苛立ちを感じるという自然法則が存在するからである。


ここから2番目の法則がやってくる。すなわち友達の欲求を完全に満たすことは誰にもできないということ。なぜなら、最終的に彼は冷静さという特質や形態を得ることはできず、それがあって初めて求めていた完全さへと至ることができるからである。


しかしこれは被造物にのみ関連することであり、クリエーターにとっては、そんなことは全くありえず、あってはならないことである。このため主は、我々が自分の力で自らの崇高さを生み出せるように、トーラーとミツヴォットという仕事を用意したのだ。なぜならその後で主からやってくる喜びや満足、つまり彼とのディビクット(付着)に含まれる全てが、全て自らの努力で手にした自己所有物になるからである。そうして我々は自らを所有者と感じる。これが無ければ、全体性の感覚は得られないのだ。


9)実際我々はこの自然法則の中心、その源を調べる必要がある。そして他人からの施しを受けるときに感じる恥ずかしさやもどかしさといった弱点を誰が生み出したのか?それは科学者達が熟知している法則からわかる。各枝はその根と同じ特質を持ち、その枝もまた根の全ての行為から欲し、求め、渇望し、そこから利益を得る。逆に根に存在しない全ての行為に対して、枝は自らを打ち消し、それらに耐えることもできず害を受ける。この法則はそれぞれの根と枝の間に存在し、破られることはない。


さてここで、この世界における全ての喜びと苦しみの原因を理解するために、目の前のひとつの扉を開けよう。クリエーターは被造物の根源であるため、我々は主の中に存在するもの、主から直接的にやってくるもの全てを、喜びや楽しさとして感じる。それは我々の特質が我々の根と似通っているからである。主の中に存在せず、彼から直接的に伸びてきているわけでもなく、創造自体に矛盾するもの全ては、我々の特質に反しており、我々がそれに耐えることは難しい。こうして我々は休息を好み、動くことを非常に嫌う。つまり我々は、休息が得られないのであれば一歩も動かないのだ。その原因は、我々の根が休息時以外でも不動であり、彼の中にどのような動きも存在しないからである。それ故これは、我々の特質に反し、我々にとって忌まわしいものとなる。


同様に私たちは、賢さ、強さ、豊かさなど非常に好み、その原因は、我々の根源である主の中に、その全てが存在していることにある。そのため私たちは、その反対である愚かさ、弱さ、貧困といったものを嫌い、それは我々の根にそれらが全く存在していないからである。このことが我々に嫌悪感や気分の悪さを感じさせ、計り知れないほど我々を苦しめている。


10)これが、我々が施しと言う形で他者から受け取るときに、恥しさやもどかしさという苦い感覚を生み出している。クリエーターの中には、贈り物を受け取るというようなものは存在しないからである。彼は誰からも受け取らない。そしてこの要素が根に存在しないため、我々はそれをとても嫌な気分の悪いものとして感じる。一方我々が他者に与えるときは、常に必ず喜びや楽しさを感じる。その行為は根に存在し、根は全ての存在に与えているからである。


11)ここで私たちはその真の姿で、主に付着するという創造の目的を吟味する方法を見出した。この崇高な状態やデヴィクットは、トーラーとミツヴォットにおける作業を通してやってくることが補償されており、それはその根と枝の同等性以外の何物でもない。優しさ、喜び、そして崇高さの全ては自然にここまで伸びてきており、これまで話したように、喜びとは唯一創造主との形態の同等性である。そして我々が全ての行為において根と同じようになるとき、我々は喜びを感じる。


また我々が根に存在しないものに出合うと、この概念に従って、それらは全て耐え難く、嫌悪感やひどい痛みを伴うものとなる。そして我々は、我々の望みがまさに根との形態の同等性の度合いにかかっているのだと、自然に認識する。


12)これらは賢者達が「なぜクリエーターは、人による虐殺がその喉でなのか、それとも首の後ろであったのかを気にしているのか?」と尋ねたときの言葉であった。(創世記Rabba 44)結局ミツヴォットは、人々の浄化、濁った身体を清めるためだけに与えられており、この目的は全てのトーラーとミツヴォットに従事することで実現する。

「野生のロバが人として生まれるだろう」(ヨブ記11:12)なぜなら人が創造の懐から生まれるとき、彼は完全に堕落した低きものとして生まれるからである。つまり彼の中には大量の自己愛が埋め込まれ、そこには他者への授与の欠片すらなく、全ての動きが彼自身を中心に動いている。


このように、その時点で人は根から最も遠く離れた反対側の末端に存在している。なぜなら根とは、僅かな受け取りすらない完全な授与だからである。ところが新生児は、授与の欠片すらない完全な自己受容の状態であり、そのため彼は、この人間世界において最も低く堕落したところにいると考えられる。


彼は成長するにつれて「他者への授与」という部分を周囲の環境から受け取るようになる。それはその環境の価値と進化発展によって決まり、その後で人は自己愛のためにトーラーとミツヴォットを維持することを教わる。彼は習慣を変えることができないため、それはこの世と次の世での褒美のためであり、それはローリシュマ(彼女の名のためではなく)と呼ばれている。


さらに人が成長すると、彼はトーラーとミツヴォットをリシュマ(彼女の名のために)で維持することを学ぶ。それは創造主を満たすことだけを意図した状態である。ラムバムはこう言った。「女性と子供にトーラーとミツヴォットをリシュマで維持せよと言ってはならない。彼らはそれに耐えることができない。しかし彼らが成長し、知識と知恵を得るとき、彼らはリシュマで働くことを教えられる。」我々の賢者たちは次のように言った。「人はローリシュマからリシュマへと至る。」それは創造主を満たすという目的によって定義されており、どのような自己愛のためでもない。


トーラーとミツヴォットにリシュマで従事するという自然なレメディを通して、トーラーの授与者はこれを知っており、我々の賢者たちは次のように書いた。「クリエーターは言う、『私は邪悪な性向を創り、そのためにスパイスとしてトーラーを創った』」(Kidushin 30b)このように被造物は進化し、既に話した崇高な上層レベルへと突き進み、それは残りの自己愛が完全になくなるまで続く。そして彼の身体にある全てのミツヴォットが上昇し、彼は全ての行為を授与のためだけに行う。そうして彼が受け取っている宿命ですら授与に向かって流れていき、彼は授与することが可能となる。だから我々の賢者たちはこう言った。「ミツヴォットは人々を浄化するためだけに与えられた」


13)トーラーには2つの部分がある。1)人と神の間のミツヴォット、2)人と人の間のミツヴォット。これらは両方とも同じもの、つまり主とのデヴィクットという最終的な目的へと被造物を連れて行くことを目的としている。


さらにそれらの実践的な側面ですら、実際ひとつの同じものである。なぜなら人が自己愛を全く混ぜることなく、つまり自分の利益を全く探すことなくリシュマの行為を行うとき、友を愛するために働くことと、クリエーターを愛するために働くことの間に、どのような違いも感じないからである。


これがそうである理由は、それがあらゆる存在にとって自然な法則であり、人は自分の身体の外側にあるものを、全て非現実的で空虚なものとみなすからである。そして他者を愛するために人が生み出すあらゆる行為は、反射する光や、やがて彼のところに戻り、彼の利益のために貢献する報酬をもって行われる。このように、そうした行為は結果を見て判断しているため、「他者への愛」とみなすことはできない。それは代金後払いで貸しているようなことであり、その貸すという行為は他者への愛とはみなされない。


しかし反射光のスパークが全くなければ、そしてその結果自分が満たされることを全く期待しなければ、他者への愛の結果として発生する行為は本来完全に不可能である。それについてはTikkuney Zoharに、世界の国々に関してこう書かれている。「彼らが行う全ての良き振舞いは、彼ら自身のためにしている。」


つまり友に対しても神に対しても、彼らの良い行為の全ては、他者への愛ではなく自分自身への愛ゆえに行われている。その理由は、それが完全に自然に反することだからである。


そのためトーラーとミツヴォットを守る人だけに、その資格が与えられる。なぜなら、創造主を歓ばせるために、トーラーとミツヴォットを遵守するように自分を習慣づけることによって、彼らは自然界の創造という懐深くから徐々に離れ、第2の特質である他者への愛を獲得するからである。


だからゾハールの賢者達は、「彼らが行う良き行為の全ては、自分のために行っている」と言って、世界の国々を彼らが愛する同胞から除外した。その理由は、彼らがトーラーとミツヴォットをリシュマで守ることに関わっておらず、彼らが神に仕える唯一の理由が、今世や来世における褒美や救済だからである。このように、彼らの神への崇拝もまた自己愛から来ており、彼らは自分の身体の外側にある行為を決して行なわない。その基本的特質を超えて自らを持ち上げることは、ほんの少しもできないのだ。


14)このようにトーラーとミツヴォットのリシュマを守る人にとって、トーラーのこの2つの部分に違いがないことは明らかであり、それは実践面でも同様である。この理由は、人がこの習慣を身に付けるまでは、どのような授与の行為も(他者に対してもクリエーターに対しても)、想像もつかない空虚なものとして感じることにある。しかし大きな努力を重ねることによって、人はゆっくりと上昇し、第2の特質を獲得する。そしてついに最終地点へと辿り着く。それが主とのデヴィクットである。


この事実から、トーラーの中の友達との関係性を扱う部分が、求められたゴールへと人を導く力をより強く持っていると考えるのは理にかなっている。なぜなら人と神の間のミツヴォットにおける作業は、変わることのない特殊なものであり、強く要求するものでもなく、人は簡単にそれを習慣化するからである。そして習慣で行われることは、もはや役に立たない。しかし人と人の間のミツヴォットは変化し、不規則であり、彼がどちらを向こうとも彼を取り囲み強く要求してくる。そのためこの救済法は非常に確実なものであり、目的により近いところにある。


15)こうして我々は、改宗者に向けたヒレル・ハナシーの言葉を理解することができる。トーラーの本質とは「汝の友を汝の如く愛せよ」であり、残りの612個のミツヴォットはその解釈にすぎない。そして人と神の間のミツヴォットですら、このミツヴァに含まれる1つの条件と考えられる。それはトーラーとミツヴォットを通して明らかになる最終的な目的地であり、賢者たちは「トーラーとミツヴォットはイスラエルを浄化するためにのみ与えられた」(第12項)と言っている。これは、この1つのミツヴァ「他者を愛すること」と定義される第2の特質を獲得するまでの身体の浄化なのだ。つまり「汝の友を汝の如く愛せよ」、これがトーラーの最終目的地であり、その後で人はすぐに主とのデビィクットを獲得する。


「汝、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、汝の神、主を愛さなければならない」(申命記6:5)この言葉の中でこのことが定義されていないのは、驚くべきことではない。それは実際、未だ被造物の特質の中にいる者にとって、神の愛と仲間の愛の間に違いがないからである。


また自分以外のどのようなものも、彼にとっては非現実的だからである。その改宗者は、ヒレル・ハナシーにトーラーから得られる望ましい結果についての説明を求めた。自分のゴールが近づくように、そして長い道のりを歩まなくてすむように、「私が片足で立っている間にトーラーの全てを教えて欲しい」と言った。そのためヒレルは、彼にとってそれは友の愛であると定義した。なぜならその狙いがより近くにあり、より早く明かされるからであり(第14項)、またそれは間違いを防ぎ、厳しい要求を伴うものだからである。


16)「汝の友を汝の如く愛せよ」というミツヴァの内容に関して、トーラーがどのようにして我々に不可能なことをさせようとしているのか、上記の言葉から、これまで話した概念(第3項、第4項)を理解するひとつの方法が見出せる。


実際この理由により、トーラーは我々の聖なる父である、アブラハム、イサク、ヤコブには与えられず、彼らがエジプトを脱出するまで留保された。彼らは脱出し、60万人の20歳以上の男性からなるひとつの完全な国家になった。その時その国家の各メンバーは、この崇高な作業に同意するかと尋ねられた。そしてその国家の一人一人全てのメンバーが心と魂からそれに同意し、「我々は行動し、そして聞く」と言うが否や、トーラーの全てを保持することが可能となった。これまで不可能であったことが可能になったのである。


この原因は明らかである。もしも60万人の男達が自分の必要性を満たすための仕事を手放し、友達が決して不足しないように守ることだけを気にかけ、そしてさらに「汝の友を汝の如く愛せよ」というミツヴァの完全なる真意の中で、彼らの実際の心と魂を持って、そして大きな愛を持ってそれを自ら維持するのであれば、間違いなくその国家の誰もが、自分の幸せに関して思い悩む必要などなくなるからである。


そのため彼は、自分の生活を守ることから完全に自由になり、より容易にミツヴァ「汝の友を汝の如く愛せよ」を維持することができる。第3項、第4項で与えられた全ての条件に従いながら。つまり60万人の忠実な愛ある者たちが、彼の必要性が確実に満たされるように準備を整え、かたわらで待機してくれているときに、自分の生活の心配などするだろうか?


そのため国家の全てのメンバーが同意するや否や、彼らはすぐにトーラーを与えられた。なぜなら彼らにはいまやそれを遵守する力が備わっていたからだ。しかし、彼らがこのひとつの全体的国家へと成長するまでは、そしてまさに、その土地における独特な存在であった聖なる父たちの時代には、望ましい形でトーラーを真に保持する資格は与えられなかった。なぜなら小人数では、「汝の友を汝の如く愛せよ」というレベルまで人と人との間のミツヴォットに従事することなど、始めることすら不可能だからだ。第3項、第4項で説明したとおりである。これが彼らがトーラーを与えられなかった理由である。


17)以上のことから、賢者たちの非常に難解な言葉を理解することができる。「全てのイスラエルにはお互いに対する責任がある。」これは完全に不公平に見える。あなたが全く知らない者が罪を犯して創造主を困らせるとき、クリエーターがあなたにその責任を問う、そんなことがありえるのだろうか?こう書かれている。「父は子のゆえに殺されるべきではない。・・・おのおの自分の罪のゆえに殺されるべきである。」(申命記:24:16)彼のことも彼の居場所も知らない、そんな完全に見知らぬ人の罪に対してですら責任がある、どうしてそんなことが言えるのか?


これでもまだ不十分ならば、Masechet Kidushin,p40bを見ること。『ラビ・エラザール、ラビ・シモンの息子は言う。「世界は多数派によって評価され、個人もその多数派によって評価される。そのため、もしも人が1つのミツヴァを実践したなら、彼は幸せである。なぜなら彼は全世界に善の秤という判決を下したからだ。しかしもしも彼が1つの罪を犯したなら、彼は苦悩するであろう。なぜなら彼は自分や全世界に罪の秤という判決を下したからである。「1人の罪人は多くの善を破壊する」と言われているように。』


ラビ・エラザール、ラビ・シモンの息子は、全世界の責任を私に負わせた。なぜなら彼は、世界中全ての人々が互いに対する責任を持ち、各自が自分の行いを通して全世界に善もしくは罪を運んでいる、と思っているからである。これには2倍驚かされる。


しかしここまで話してきた内容によれば、彼らの言葉は非常にシンプルに理解できる。我々が示したのは、トーラーにおける613個のミツヴォットは、それぞれがたった1つのミツヴァを中心に展開しているということ。つまり「汝の友を汝の如く愛せよ」である。そして全てのメンバーがそれに同意する完全な国家においてのみ、そのような状態が可能となることがわかる。


訳注11:ヘブライ語の「Klal」という単語は、「法則」と「集合」の両方の意味を持つ。


Yehuda Leib HaLevi Ashlag (Baal HaSulam)

Last Updated (Friday, 10 November 2017 23:19)